2022-09-25 面白い記事とは何かについて、を聴いて
Tak.さんが私のブログを話題にして下さって嬉しい。
以前ブログの中でどんな記事が好きかを書いてらして、興味のある話だったので聞いてみたのだけれど、わーー!びっくり、ではなかったけれどなんかうれしかった。
https://open.spotify.com/episode/3rP4JlkvMQWkXXm3Oj347P?si=nJ6keCmdRuqzG_Dok3Rbvg&context=spotify%3Ashow%3A2gF0IFNpleHgggppqzHGL9
私が好きな文章、好きな日記、好きなブログってどんなものだろう。
なんだろなー。
なにか体の中から出したいことがあって、それに言葉をあてる、という切実なものも好きだけれど、特に温度なく日常を記述しているようなものの中にも面白いなと思うものもあるし。
でも自分のために書いているものが好きなのかもしれない。自分のためというのは読み手を意識するかどうかとはまた別の話で。私が本を読んでそのあらすじを説明できないのも、自分は誰かに何かを説明したくて書いているわけではないからなのかもしれないな。同じように、その人の肌から遠いものは、読んでいる私の身に引き寄せられない。
私はとことん自分と直に触れるものしか味わおうとできないのかもしれない。
でも説明的なものが全部苦手というわけではなくて、例えばだけどTak.さんのアウトライナーの本はとてもおもしろかったのだよな。アウトライナーというものを使ってみる、その手順が一歩いっぽ書かれているから自分がそれに足並みを合わせて進んで行ける…という身について行く感がよかったというのは普通にあるとして、その先に、字面だけではたどり着けない作業の可能性にわくわくしたものの、何にわくわくしているのか自分でもよく分かっていない。分かっていないけれど、ここまで一緒に作業をしてみたからその「ありそう」ということが確信されてはいる。
そういう導き方もあるんだな、とびっくりしたのを覚えている。
こういうのって武術とか踊りとかの稽古で味わう感覚に似てないかな?と思ったんだけどどうしてそう思ったのかよく分からない。
だって肉体的なものを伴わない例えば学習でも、先生がいて一緒に歩んで、あるところで「まだわからないけどこの先になにかあるぞ」という感覚にはたどり着くものね。
どうして、体を動かすことのほうに近い感じがしたのか、いったいなんだったっけ?(答え無し…)
でももしかしたら、日記のようなことをはじめ、自分が何かしらを文章にするということ(それがタスクであっても)は自分が生きているという中から浮き上がってくることであって、それが浮かんだあとは自分にとってすらばらばらに見えるのだけれど、本当は同根であるはずだ、そこをいつも自分の中心と結びつけておきたいという感覚的な欲求というか本能のようなものがあって、それまでは無意識だったのに急に光を当てられて、そういえばずっとこういうことが積もっていたよ、と思ったからなのかも知れない。
まだよくわからない。
メモ。
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MUBIって字幕があるけれど、フランス語音声にはフランス語字幕がつかないのね。フランスでは映画には必ず聴こえないひとのために字幕が付いているから久しぶりにあっと驚いた。
簡単だったから字幕なしでも1日で見通せたけれど、字幕を頼りに色んな映画を見ようという私の作戦は頓挫するかも。
フランス語音声+フランス語字幕が一番良い。
フランス語音声+英語字幕はまだまし。
英語音声になるとフランス語字幕が付いていても全然だめだ。英語が聞き取れないし字幕はスピードについて行けない。